白鳥西町会の沿革
白鳥西町会は、令和5年(2023年)で創立75周年を迎えました。
平成11年に50周年記念誌として発行されました「白鳥西町会の50年」より、
町会の沿革を本文のままご紹介します。
沿革
町名の由来
町会創立五十周年に当たり、町会の沿革と町史の大略を振り返り、ここに記録をいたします。まず「青戸町」より「白鳥」に町名が変わった、新町名の由来を申し上げます。
地名の起源は、昔、この辺り一帯は白鳥沼(はくちょうぬま)と称する広大な池沼があり、江戸時代には、歴代将軍の「御鷹狩り」の定場所として重要視されて、毎年、十一月から翌年二月下旬位までに、数回催されておりました。
明治の末から大正のはじめころまでは、芦や蘆荻が繁茂する白鳥沼に無数の雁、鴨、白鳥の類が群舞していた所でした。 そして、その白鳥沼の名から、「白鳥」という地名を決めたと言われております。それについては、大正九年当時の古書にも「南葛飾郡亀青村大字青戸字白鳥沼」(現東京博善社 (株) 四ツ木斎場)という地名が残されております。
京成線開通〜
東京市葛飾区
大正元年十一月に私鉄(株) 京成線の押上駅から江戸川駅までが開通し、昭和五年には成田まで全線開通しました。 一方、上野線は昭和六年十二月に日暮里駅から青砥駅までが開通し、お花茶屋駅が無人駅として開業をしました。 昭和八年十二月に日暮里駅から上野駅までが開通し、青戸駅から上野駅までが全線開通したことにより、町に一躍発展の兆しが見えてきました。(昭和三十五年十二月に、押上より都営地下鉄一号線と相互乗入れ開始)
また、大正十二年九月一日に起こった関東大震災で、罹災した都心の人々や事業所が近隣に移住し、当区もさらに人口が増加してきました。 また、昭和七年十月一日からの市域拡張により、東京市十五区と郡部八十二か町村が合併しました。当区は、金町、水元、本田、奥戸、南綾瀬、亀青、新宿の七か町村を併合し、東京市葛飾区となりました。
町会の誕生
区制実施に伴い、初めは単なる親睦団体ないしは氏子団体あるいは衛生事業を中心とする団体など、すこぶる簡単なものに過ぎなかった町内組織が、時代を反映して次第に強化された町会組織になっていきました。それに伴って、区制運営上の補助機関として、町会の利用が注目されてきました。と同時に、当地域も、初め旧青戸一丁目、二丁目、三丁目、四丁目まで、全町連合して青戸町内会として新たに結成いたしました。 初代会長は、延命寺住職、纐纈(きくとじ)澄順 氏でありました。
また、昭和八年ごろから急激な人口増により、無計画な宅地化が進み生活環境が悪化するのを防ぐため、同年まず青戸地区の土地区画整理が始まりました。そして昭和十二年、現白鳥四丁目付近に京成電鉄(株)によって、お花茶屋工場街分譲地として広く売り出されました。
それまでは、この一帯は、一面まだ青田の中で、その中に(株)博善社四ツ木斎場 (同社は大正八年五月「(株)天親館」として設置された。創立者は千代田区神田の肚間病院の院長、森田某氏である。また、昭和二年一月に、東京博善社(株)と合併する。名称は、当時、曳舟川沿いに四ツ木村より亀青村までの古道の名「四ツ木街道」の名を取り四ツ木火葬場とした)と、現白鳥一丁目の浄泉寺(当寺は昭和三年四月に中央区築地より移転)と、現白鳥四丁目の延命寺 (当寺は昭和二年四月に墨田区中之郷町より移転)のほかに、十数軒の農家と民家がありました。その後、工場街として、七~八社の工場が転入して、社員住宅、店舗等も増えていきました。
戦争の影響
区画整理組合を設立してから随時、道路の整備が行なわれましたが、その当時、町内の道は、四ツ木斎場の前を流れる農業用水(現在の「フラワー通り」)に平行していた千住街道が随一の通路でありました。 しかし、区画整理のなかばに、だんだん戦時色が濃くなり、昭和十六年ごろより、現白鳥二丁目、三丁目の大半が、軍の高射砲陣地に設定されました。戦時中は、高射砲十八門を設置して、兵隊、一個大隊(約三百名)が常駐し、首都防衛のために活躍していました。
また、昭和十七年ごろから、町会組織も時局の進展に伴って、大政翼賛会や銃後奉公会などに利用され、全国的に統制強化されていきました。 また、昭和十八年七月の都政施行後も、町会の使命はますます重要性を帯び、従来の物資配給、貯蓄増強、勤労奉仕のほかに、防空から国土作戦への利用にまで進んで、苛烈な戦争に巻き込まれていきました。
昭和十八年四月より、旧青戸一丁目、および四丁目がおのおの分離して、人口の少ない青戸一丁目の一部、 二丁目、三丁目が合同して、「青戸一二三町会」として運営をすることになりました。また、当町会は第一分会として、昭和二十二年三月まで運営をしておりました。(初代分会長、中野武衛氏)
幸いにして、昭和二十年八月十五日終戦となり、ようやく明るい兆しが見えてきましたが、町内には、多くの高射砲の台座や兵舎が残っており、浮浪者等の住居となり、当時は防犯上の頭痛の種でありました。
また、戦災で罹災された転入者への配給物資、進駐軍放出物資の配給等で役員たちの活躍は大変なものでありました。また、昭和二十一年二月一日に第一次農地改革が行なわれました。 しかし、昭和二十二年三月当時の進駐軍(GHQ)の指令に基づき、区内各町会、隣組を強制的に解散させられました。
キャサリン台風の襲来
また、そんな時、昭和二十二年九月二十日、 キャサリン台風による未曾有の大水害が当地域を襲いました。 台風は九月十五日に関東と中部の各地に未曾有の豪雨を降らせたのです。各地における雨量は、箱根で750ミリ、秩父で610ミリ、東京で166ミリというような記録的豪雨でした。また、それだけの量の雨が比較的短時間に降ったため、群馬県や栃木県方面の山間地帯に山津波や崖くずれを起こして、これらの水は本流(利根川)に向かって狂奔し、利根川の栗橋付近の堤防が決壊して、埼玉・東京方面に水害をもたらしたのです。
また、葛飾区内では、金町の桜堤が十九日に、亀有の中川土手が二十日に決壊して、濁流は滝のように区内を南下してきました。当町内も、水位1.5メートルくらいまでになり、約20日間くらい水浸しとなりました。町民の大半は、親せきや知人宅に疎開をしましたが、取り残された人々は、しばらく屋根上に暮らして難をのがれておりました。
しかし、この非常時に、町会員はもとの会長をはじめ役員が、一致団結して町会員のために大活躍をしました。まず救援物資の引き取り、配布をしました。 しかし、交通はまったく途絶えており、小舟、またはいかだを組み、四ツ木橋、または亀有駅、または堀切の荒川土手まで取りに行きました。が、しばらくはまったくの惨状でありました。現東町会を中心とする町会の中で、当町会方面は、どうしても配給物質等の不均等を余儀なくされ、ある役員が区役所に掛け合いに行ったことなどもありました。しかしこれより先、この年四月にGHQの意向により旧町会組織が廃止されておりまして、住民自治組織が空白状態にあったことも、この緊急事態に対処するにあたって痛手でありました。
町会組織の再編
当時、終戦二年目を迎えたばかりの人々は、ようやく虚脱状態を脱しつつあったとはいえ、社会的にも経済的にも、極めて不安定な生活を余儀なくされており、このような時この不測の災害を受け、茫然自失の状態でありました。
人々は、自らの生活を立て直す一方、この災害経験から、それ以前・以後の一般的な行政の施策への不満を自ら補わざるを得ない実状からも、住民自由組織の必要性を痛感して、旧体制を元に町会組織を再結成することとなりました。
しかし、前述の「内務省令」をはばかって、「町会」の呼称をつけず、昭和二十三年四月より、旧青戸一二三町会域を二分して「亀有警察署」および「日本赤十字社」の協力団体の名のもとに、「日本赤十字社奉仕会、亀有防犯会青戸西分会」と名称をつけ、事実上の町会活動に入りました。この時の町会区域は、現・白鳥一丁目、二丁目、および白鳥三丁目、四丁目の一部でありました。また、その時の会員数は、135戸であり、初代会長は、植田正雄氏でありました。
どうやら行政機関との連絡体制は整いましたが、夜間、町内は暗く、街路灯の設置、蚊・蠅などの駆除、溝川の清掃、など町会の苦しい財政の中から、なんとか工面をしながら、町会の運営活動をしておりました。
また、昭和二十七年、サンフランシスコ講和条約が締結され、戦後の占領体制が解かれました。同時にGHQの政令の解除により、昭和二十八年四月より、三代会長・佐藤雪雄氏の時、新たに町名を「青戸西町会」と改名することになりました。また、昭和二十七年七月、戦時中は中断しておりました現六号線(水戸街道または放射十三号線)の荒川の四ツ木鉄橋が完成して、区内の大動脈が全線開通しました。また、同放射十三号線は、関東大震災後、いち早く都市計画法が公布され、昭和二年ごろから着工しておりましたが、戦争その他の事情によって未完成でありました。
水戸街道開通
〜大道中学校・白鳥小学校開校
また、昭和二十七年、サンフランシスコ講和条約が締結され、戦後の占領体制が解かれました。同時にGHQの政令の解除により、昭和二十八年四月より、三代会長・佐藤雪雄氏の時、新たに町名を「青戸西町会」と改名することになりました。また、昭和二十七年七月、戦時中は中断しておりました現六号線(水戸街道または放射十三号線)の荒川の四ツ木鉄橋が完成して、区内の大動脈が全線開通しました。また、同放射十三号線は、関東大震災後、いち早く都市計画法が公布され、昭和二年ごろから着工しておりましたが、戦争その他の事情によって未完成でありました。
また、昭和二十八年九月一日に、近接地域の念願でありました小学校が完成しました。創立時は亀青小学校の分校で、木造二階建て五教室のみでありましたが、翌年四月より独立校として白鳥小学校になりました。また、これより先、昭和二十二年には、大道中学校も創立しております。
白鳥西町会に
昭和三十年四月に、会長・白崎敬造氏の時に、町名を「青戸一二丁目西町会」と改名しました。同時に同氏より、町の象徴たる町会旗を寄贈していただきました。
また、この年、会員念願の祭礼用「神輿」の購入を決めた。当時の延命寺住職の纐纈(きくとじ)氏の紹介にて、墨田区中之郷町会(現押上二丁目) より中古(昭和五年製)の中神輿、 小神輿、山車太鼓を、金十七万円にて買い受け、同時に青砥神社境内に、金三万円にて御神輿庫を建設し、現在まで青砥神社の氏子町会として祭礼を続けております。(例祭日は九月九日)
また、昭和三十二年、会長・栗原茂三郎氏の時に、地域発展のために、町会会館の設立を起案しました。同氏が設立委員長となり、建設費、金四十五万円にて、昭和三十四年七月に、めでたく落成をしました。 (木造平屋建)
また、戦時中に中断されていた区画整理も、ようやく完成し、記念事業として昭和三十六年五月六日、白鳥公園(白鳥二丁目十八番)ができ上がり、落成祝賀会を東西両町会で行ないました。(白鳥南公園は昭和四十九年三月に開園)、同年七月十一日、白鳥小学校において、東西両町会合同で、町内都市ガス導入促進大会が行なわれ、運動の結果、その目的は達成しました。
昭和四十一年六月一日より、住居表示改正により、青戸町から白鳥と改名されました。同時に町会名も「白鳥西町会」と改名し現在に至っております。
長寿会・
子供会育成会・
市民消化隊発足
〜新町会会館建設
昭和四十四年(会長・長野三郎氏) の時に、老人クラブ「長寿会」が発足しました。昭和四十五年八月に、国道六号線と京成線が立体交差化され、国道の渋滞が解消されました。
昭和四十六年(会長・市橋亘氏) の時に、「子ども会育成会」が新たに発足をしました。昭和四十九年八月に、東京都の要請で都内広域災害防止活動のために、当町会に「市民消火隊」を設立しました。 隊長・鈴木康友氏、隊員十三名。 昭和五十三年、消火隊の中から新たに六名の隊員が、本田消防団第八分団(現十三分団)に入団しました。 昭和五十六年八月三日に、第十五出張所(現お花茶屋出張所)が開設され、当町会は第八出張所(現青戸出張所)から第十五出張所管内に編入されました。
このようにして、町会の運営も順調に運んでおりましたが、当時、町会会館も老朽化が進み、会館改築の気運が高まり、昭和五十八年に、会長・市川亨氏を中心に、建設委員会を作り、葛飾区からの補助金、会員からの積立金等で、昭和六十一年十一月、竣工落成しました。また同年、「町会旗」も新調しました。
五十八年(会長・市川亨氏)より月一回(第二日曜日) 清掃活動を全員の手で行なわれるようになり、又縁日も五十九年九月より始まり、青少年の教育という意味も兼ね、六十二年からは、四月より十一月迄と会員の交流を深めました、
表彰される町会に
歴代会長と役員の皆様に感謝
そんな折に用水路の埋立ても完成し、六十二年春に全長1kmにおよぶ花壇が出来上り、現在まで年三回の花を植替えております。 又同時に町内に230個のフラワーポットを配置し町全体を環境美化運動として活動をしております。 『東京に故郷を!!』とスローガンに、「上には果実、下には草花」、と会員皆様のお手伝いを頂き、東京ではめずらしい町並になって参りました。それらの活動が認められ、平成三年に、「日本道路協会」より、平成四年に「建設大臣」より町の環境美化に励んでいる事を認められ、表彰を受けました。
又リサイクル活動に対して、区内で最初のモデル地区に指定され、町内十一ヶ所にある集積場所では、有志の皆さんにて、多大なご協力にて活動としております。 平成五年三月に葛飾区より、感謝状も頂きました。
平成六年の青砥神社大祭礼に向けて、大人神輿を富山刑務所に発注して新調しました。
それに伴い、従来の中小神輿を改修し、秋の大祭礼の日に盛大に披露をしました。
創立以来、幾多の困難を乗り越えた歴代会長、役員の皆様には、町会発展のため、鋭意努力をされ、地域の学校設立、衛生活動、福祉事業、防犯・防災・交通安全運動等を行なってまいりました。また地域に都市ガス・水道・下水道の導入まで、並々ならぬ努力の跡を、忘れることはできません。
現在、町会員数は、かつて創立当時の135戸から、1650戸を越すようになりました。 今後、二十一世紀に向けて、過去五十年の歴史を踏まえた当町会の充実発展に、大いなる前途を期待するものであります。
以上、およぶ限りの沿革を記述して、歴代会長、役員の皆様には深く敬意と感謝の意を表して終わりにいたします。
(改行、算用数字の置き換え以外、原文のまま)
時間の流れに埋もれてしまいがちな貴重な資料でした。
当時の50年誌編集委員会の皆様に感謝申し上げます。